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Profile | プロフィール

おば/ダンサー
鎌倉市腰越出身。中学生の頃、魔女の宅急便 グーチョキパン店に衝撃を受けパン屋になることを志す。国際製菓専門学校 高等科入学。
その後、NewYorkBroadwayDanceCenter留学。
留学時 世紀のクレイジーダンサーと名が高い Jazzy Jに出会い師とする。
TokyoDanceDelight優勝、GenevaUniqueBattle優勝など国内はじめ海外でのダンスバトル・コンテストにて数々の優勝を果たすが、世界放浪の旅に出る。
帰国後、早稲田大学建築学科 夜間部に入学。二級建築士、二級福祉住環境コーディネーター取得。
その甲斐もなく現在は映像作品・舞台などで踊る。
近年では映画「 BAKEMONO 」にて主演、2016年3月に新国立劇場主催 平山 素子振付 「Hybrid 」に出演予定。
稽古場として鎌倉 由比ヶ浜 SeeSaw、NPO法人 共有空間を主宰。
2014年にKAMAKURADANCEFESTIVALを主催。

公式HP
衣装:S/STERE

留学時にPOP DANCEのパイオニアJazzy Jに出会いPOP DANCEを始める。TokyoDanceDelight優勝、GenevaUniqueBattle総合優勝など国内はじめ海外でのダンスバトル・コンテストにて数々の優勝を果たす。ストリートダンスの枠を超え独自の表現を追求。15年にはYOJI BIOMEHANIKA with MC STRETCH「The Place For Freedom」のPVに出演、シルクドソレイユにダンサー登録されるなど、表現の幅を格段と広げている。

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おば/ダンサー
鎌倉市腰越出身。中学生の頃、魔女の宅急便 グーチョキパン店に衝撃を受けパン屋になることを志す。国際製菓専門学校 高等科入学。
その後、NewYorkBroadwayDanceCenter留学。
留学時 世紀のクレイジーダンサーと名が高い Jazzy Jに出会い師とする。
TokyoDanceDelight優勝、GenevaUniqueBattle優勝など国内はじめ海外でのダンスバトル・コンテストにて数々の優勝を果たすが、世界放浪の旅に出る。
帰国後、早稲田大学建築学科 夜間部に入学。二級建築士、二級福祉住環境コーディネーター取得。
その甲斐もなく現在は映像作品・舞台などで踊る。
近年では映画「 BAKEMONO 」にて主演、2016年3月に新国立劇場主催 平山 素子振付 「Hybrid 」に出演予定。
稽古場として鎌倉 由比ヶ浜 SeeSaw、NPO法人 共有空間を主宰。
2014年にKAMAKURADANCEFESTIVALを主催。

公式HP
衣装:S/STERE

留学時にPOP DANCEのパイオニアJazzy Jに出会いPOP DANCEを始める。TokyoDanceDelight優勝、GenevaUniqueBattle総合優勝など国内はじめ海外でのダンスバトル・コンテストにて数々の優勝を果たす。ストリートダンスの枠を超え独自の表現を追求。15年にはYOJI BIOMEHANIKA with MC STRETCH「The Place For Freedom」のPVに出演、シルクドソレイユにダンサー登録されるなど、表現の幅を格段と広げている。

1) 生い立ちと、ダンスを志した経緯を教えてください

生まれは鎌倉の腰越です。ダンスはもともとうちの兄がやっていて、その影響で中学生の頃に始めました。ダンスを始める前から魔女の宅急便の影響でパン屋になりたいという夢があったので、高校からは東京の小平にある製菓専門学校に通いました。本格的にダンスの道を志したのは、製菓学校での進路相談時に先生から、「ダンスとパン職人の両立は無理だから狂えるほうを選びなさい」と言われた時で。当時はパンの修行でドイツに行くことも決まっていたけれど、やはり狂えるのはダンスだなと思い、留学先をニューヨークに変更することを決心しました。17~18歳の頃です。ニューヨークには、世界中からダンサー志望の人が集まるブロードウェイ・ダンス・センターというダンス学校があって、そこに入学しました。そこではバレエが必修科目となっているのですが、自由科目にポップ&ブガルーというストリート・ダンスのジャンルがあって、そこでJazzy Jというポップ&ブガルーのパイオニア的存在と出会い、大きな衝撃を受けて、彼のもとで2年半に渡って修行をしました。

2) ニューヨークでダンスを学んで、日本のダンスシーンとはどのような違いを感じましたか?

アメリカのストリート・ダンスシーンではまず、オリジナリティがあるということが絶対的に重要でした。どんなにうまくても、人の真似をしている限りは認められなかったです。ただ、実力主義の世界で、ちゃんとオリジナリティのあるダンスができれば素直に認めてもらえるので、そこはやりやすかったです。日本人ということで最初は舐められたりもするのですが、実力さえあれば逆にリスペクトされるというか。

3) OBAさん自身のオリジナリティというのは、どう見いだしたのでしょう

基本は、自分とひたすら向き合いました。こればかりは自分で苦労して作り上げていくしかない。ただ、オリジナリティはもちろん重要なのですが、それがあるのは当たり前のことのように思えてきて、そもそもの踊りって奉納であるという背景に意識が向くようになりました。オリジナリティを超えた先にいきたい、そのためには一度、エゴを壊していかなければならない。ただ自己主張をするだけならジェスチャーで充分です。しかしジェスチャーでなく、踊ることによって観る人に何かしら影響を響かせるためには自分が受け皿にならなければならい。自我を捨て、空っぽになり大我の受け皿となる。自己主張かつ自己陶酔しているのではダンサー本人が自分で精一杯で観てる人が自己投影する余地はありません。ダンサーは、観ている人が自己投影できるような存在でもあるのでは…と思います。もともと太古から踊りというのは神事であって、巫女さんなどが神がかりで踊る姿に、人々が神を見るというものでした。つまり、踊りの根源には大いなる存在を共有するという背景があり自我を超越することである。エゴをなくす、ということはダンスに限らず、どんな表現にも通ずることなのかもしれません。

4) 自分の道を見つけるのに必要なものはなんでしょうか?

それは僕なりにはっきりしています。心から“感動”することだと思います。もし何もやりたいものが見つからないのであれば、それは日々に感動してないから。感動っていうのはもちろん、ただ泣くとかそういうことじゃなくて、自分の中にある“感を動かす”もので、そうなれば自然とその対象に興味が湧くはず。そして、その後には実践、挑戦が待っているでしょう。しかし、根本の感動が少ないと、そこまで自分を突き動かすことはできない。思うに、子どもの頃は誰もが表現者で自由に絵を描いたり踊ったりしていたのが、社会の中で自らの立ち位置や集団の規範などを学ぶうちに、だんだんとみんな、表現をするのが恥ずかしくなってしまうのだと思います。だけど、純粋に物事に感動して、内発的になにかをやってみようと思うことは大事なことで、そうした衝動はたぶん、世界一周の旅で自分探し! みたいなことをしても見つかるものではないと思っています。実際に自分が世界各地を旅して、自分探しをしたこともありましたが、見つかるものでもなかったです。まずは環境に言い訳せずに、今の自分自身と向き合って、自分がなにに対して感が動いているのかを探ってみるのがよいのではないでしょうか。

5) 2010年にオーストラリアに渡り、その後世界各地を旅していますが、その理由は?

僕はニューヨークから帰ってきた後、20歳から23歳までは日本でインストラクターを中心にダンスの仕事をしていたのですが、人に教えるということにはどうしても魅力を見いだせなくて。でも、食べるためにインストラクターを続けていたら、精神的に参ってしまって。このままじゃマズイと思い、一度すべてをリセットしようとオーストラリアに行きました。ストリートで踊るととても稼げるという噂を信じて行ったところ、実際に結構稼げました(笑)。キャンプ場みたいなところにテントを張って、食費もしっかり抑えていたので、3カ月くらいでそれなりにお金も貯まりました。そのお金で、インドやネパールなどを旅してまわりましたが、そのときはもう踊る気力がなくなってしまっていたし、踊ると人が集まって大変なことになるので、普通に旅をしていた感じです。日本の3年間と、オーストラリアの数カ月で、僕のダンスに対する興味はすっかり消えていました。

6) 一度はダンスへの情熱を失いかけたOBAさんが、再びダンスの道に戻ってきたきっかけは?

旅から帰ってきた後、たまたまご縁があって、木場にあるギャラリーの方から、元Noismの高原 伸子さんと一緒に踊ってほしいという依頼があったんです。一緒に創作をさせていただくうちに、そのクリエイティビティに影響を受けて「やっぱりダンスっていいな…」という感情が湧いてきて。
その後、舞踏家の笠井叡さんの舞台をたまたま見る機会があったのですが、それが本当にすごくて、ショックを受けました。笠井叡さんは御歳70歳を越えていたのですが、その踊りが素晴らしくて、僕ははじめて人の踊りから“光の残像”のようなものを見ました。「ダンスの表現って、この次元までいくことができるのか」という衝撃の瞬間で、そこで完全にスイッチが入りました。僕のダンス人生は、そこからが本当のスタートだったと思います。

7) 主催された鎌倉ダンスフェスティバルはどういうコンセプトで始まったのでしょうか?

僕はもともとストリート・ダンスの出身なのですが、それはヒップホップ文化のひとつで、根源にはフラストレーションというか、反骨精神のようなものがあります。だからこそ、不良の文化として、社会的には偏見の目で見る人も少なくない。そしてその偏見は、風営法にも反映し、クラブ営業の規制強化などにもつながっていました。しかし、このようにひとつの文化に対して国が規制をかけるというのは、とても危険な兆候だと思います。なぜなら踊りという文化は、世界各国どこにいってもあるもので、先に述べたようにそれは神事にも関わってきた大切な文化であり、人々が日常の中で溜め込んできたものを解放する行為でもあるからです。このイベント自体はもともと、単純に鎌倉でなにかをやってみたいという気持ちからスタートしましたが、せっかくだから鎌倉ならではの舞台、そして人々にダンスに対するイメージを変えてもらおうと、円覚寺佛日庵で開催することにしました。住職も理解が深い人で、快く協力してくれました。また、重要なのが、そこで伝統舞踊をすることじゃなくて、その場所で今、この瞬間に生まれている“今のダンス”を観てもらうということ。歴史のある場所で、ストリート・ダンスやコンテンポラリー・ダンスのような“今のダンス”を披露することによって歴史と今の融合が生まれ、市民を含めた一般の方々にもダンスの素晴らしさを体験してもらいたいというのが、このフェスティバルのコンセプトでした。

8) 今後OBAさんが表現したいことを教えてください

最近、YOJI BIOMEHANIKAさんのプロモーションビデオに侍役で出させてもらったのですが、そのときは踊りだけではなく、ひたすら佇むとか、カメラを睨むとか、いろんな要望があったんです。28時間ぐらいぶっ通しで行いました。それで撮影開始から翌朝の8~9時くらいに、僕の分身が10人くらい出てくる最後の撮影シーンがあったんですね。いちばんきつい時間に、10人分、全部異なる動きを要求されました。そのときはもう疲れ果てて全身筋肉痛で、手もガタガタ震えちゃって、身体が動かないんです。身体が動くのを拒絶している状態。だけど、いざカメラがまわると、現場入りしたときよりキレがよくて、完全になにかが憑依しているような感じになったんです。ところがカットって言われた瞬間、我に返って自分じゃない何かに恐ろしくなったのと同時に何故か異常に切なくて号泣してしまう。それを7~8回繰り返した頃かな、涙がいっさい止まって、自分の内面からどす黒い赤のような“笑い”が沸き上がってきたんですよ。それまでの人間らしい感覚が飛んでしまったというか、「人を斬るの楽しい!」みたいな感じで、狂っちゃったんですね。怒りの根源には恐れがあると思うのですが…笑いが込み上がってきた時点でもはや恐れが根になかった。その境地はダンスでは達することが今まで出来なかったので、今はあの感覚をもう一度体験してみたいというか、本気でそこに身を投じてみたいと思っています。たぶん、そうした禍々しい悪って、誰しもが必ず持っているもので、それは今の時代こそ、ちゃんと表現されるべきなんじゃないかな。善の代弁者はたくさんいるし、そうした言葉は世にあふれているけれど、それだけで人間は救われないと思う。僕自身、狂気を描いた映画は好きで、それを観たときになぜか救われる感覚もあるんですよ。これまでダンスに身を捧げてきて、映画に出たいなんて思ったことはなかったけれども、今は悪役として自分の中にあるものをもっと放出してみたいし、その衝動に突き動かされています。

TEXT:松田広宣

PHOTO:神藤剛

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