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まつだ・けいじ/「遊び学」研究者、東京学芸大学副学長
1962年、和歌山県生まれ。大阪教育大学大学院卒。専門分野は社会学(スポーツ・教育・文化)と教育研究(体育科教育/教育支援)。NPO法人東京学芸大こども未来研究所理事長、中央教育審議会生涯学習分科会専門委員、吉本興業主催「笑楽校」監修など、教育および教育支援に関する多くの要職を兼任。学校と社会を繋ぐための教育人材の育成や、スポーツ教育の開発を通じて、教育現場との実践的な共同作業を行っている。一方、社会意識論の立場から「遊び文化」を研究。あらゆる場面で「遊び」を取り入れた活動・普及に取り組んでいる。

東京学芸大こども未来研究所HP

大阪教育大学大学院卒。専門分野は社会学(スポーツ・教育・文化)と教育研究(体育科教育/教育支援)。NPO法人「東京学芸大こども未来研究所」理事長、「中央教育審議会生涯学習分科会」専門委員、吉本興業主催「笑楽校」監修など、教育および教育支援に関する多くの要職を兼任。学校と社会を繋ぐための教育人材の育成や、スポーツ教育の開発を通じて、教育現場との実践的な共同作業を行っている。一方、社会意識論の立場から「遊び文化」を研究。あらゆる場面で「遊び」を取り入れた活動・普及に取り組んでいる。

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まつだ・けいじ/「遊び学」研究者、東京学芸大学副学長
1962年、和歌山県生まれ。大阪教育大学大学院卒。専門分野は社会学(スポーツ・教育・文化)と教育研究(体育科教育/教育支援)。NPO法人東京学芸大こども未来研究所理事長、中央教育審議会生涯学習分科会専門委員、吉本興業主催「笑楽校」監修など、教育および教育支援に関する多くの要職を兼任。学校と社会を繋ぐための教育人材の育成や、スポーツ教育の開発を通じて、教育現場との実践的な共同作業を行っている。一方、社会意識論の立場から「遊び文化」を研究。あらゆる場面で「遊び」を取り入れた活動・普及に取り組んでいる。

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大阪教育大学大学院卒。専門分野は社会学(スポーツ・教育・文化)と教育研究(体育科教育/教育支援)。NPO法人「東京学芸大こども未来研究所」理事長、「中央教育審議会生涯学習分科会」専門委員、吉本興業主催「笑楽校」監修など、教育および教育支援に関する多くの要職を兼任。学校と社会を繋ぐための教育人材の育成や、スポーツ教育の開発を通じて、教育現場との実践的な共同作業を行っている。一方、社会意識論の立場から「遊び文化」を研究。あらゆる場面で「遊び」を取り入れた活動・普及に取り組んでいる。

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1) 専門分野は「社会学」と「教育研究(体育科教育/教育支援)」とのことですが、具体的に言うと?

一言で言えば、「遊び」を通して、人間と社会のことを探ろうということです。何と言いますか……私には“表の顔”と“裏の顔”がありまして(笑)、子どもから大人まで、家庭から地域・学校まで、広い範囲で教育支援のあり方を考えたり、なかでもスポーツの教え方について探ったり、という活動が大学での表の顔。裏の顔としては「遊び」を軸とした幅広い研究・活動を行っている社会学者です。

2) 「遊び」を軸とした研究・活動とは?

「遊び」を学問として研究し、世の中に「遊び」と関わる何かを仕掛けていこう、というものです。では一体、そもそも遊びとは何なのか?──『ホモ・ルーデンス』の著者ヨハン・ホイジンガの言葉を借りるならば「遊び=おもしろい」であり、私もこのひと言に尽きると思います。彼は「人間の文化は、すべて遊び(おもしろい)から生まれた」と唱えた人物で、この説は非常に興味深いし納得してしまう。
たとえば、調理において「生肉を火で焼く」という文化がありますよね。この理由として「衛生のため」との見方がありますが、彼の発想からいくと、あとづけでしかないと。まだ言葉もなかった時代、生肉を食べていた人類が、ふざけて生肉をたき火に近づけた。すると、ジューッという音とともに香ばしい匂いが……。そして、食べてみたら「メッチャ美味しいじゃん!」という出来事が調理文化の始まりだった、と考えるわけです。
「ルーデンス」とはオランダ語で「遊び」を意味し、ホイジンガは「人とは遊ぶ存在である」と位置づけました。「おもしろい」の反対は「つまらない」であり、人はつまらない人生よりもおもしろい人生を望みますよね? つまり、生きるということは本能的に「おもしろい」を求めることであって、人生には遊びが必要不可欠なんです。

3) すべての文化が遊びから生まれるならば、重要な研究分野となりそうですね

事実、国の教育政策でも、子どもたちへの遊び場の提供が進められていますからね。ところが、近年の風潮で懸念すべきは、遊びが“目的ではなく手段”として捉えられがちな点です。遊びが何らかの役に立つという考えはごもっともですが、「具体的にコレの役に立つからコレで遊びましょう」は違うと思うんですよ。よく「このおもちゃで遊べば、こんな能力が養われますよ」などと喧伝されていますよね。ここで問題なのは、遊びが“能力を得る手段”と受けとめられ、結果として「子どもに遊びを強制する」という事態に陥ってしまうことです。遊んだから、たまたま力がつくわけであって、力をつけるために人は遊ぶわけではない。遊びの本質は「おもしろい」であって、この感情は能動的なものですが、強制すると能動性は失われてしまう。つまり「強制された遊び」は「遊び」とは呼べないんですよ。

4) 結果として「遊び」が減ってしまうと、どうなるんですか?

まず、前提として考えたいのは、遊びとは「非日常」や「不安定」を楽しむものだということです。ゲームをおもしろいと感じるのは「勝つか負けるか分からないから」で、最初から勝ち負けが分かっていたらおもしろくないでしょう? しかし一方で、不安定を楽しむためには「安心感」も必要です。矛盾しているように思えますが、ジェットコースターという不安定な乗物を楽しめるのは一定の安全性が確保されているからであり、スカイダイビングという非日常を楽しめるのもパラシュートがあるからです。
以上を踏まえて、非日常や不安定を楽しむという行為は「自分の思い通りにならない人・環境と関わること」だと思っています。でも、それが楽しいので、結局、遊びを通じて人は成長してしまうんだと思います。つまり、遊びを通じて成長することで、知らない人とのコミュニケーション能力、新しい環境への対応力が養われるのです。ところが、満足に遊びを経験しないと、これらの能力が不足してしまう。いまの若い世代は、とにかく現実における非日常・不安定を嫌う傾向にありますが、この一因として遊びの欠如が考えられるのです。

5) 現代の若者、いわゆる「ゆとり世代」は、ゆとり教育によって遊びが増えた印象がありました

実は逆なんです。ゆとり教育には、自分でテーマを決めて学ぶ「総合学習」がありました。一見、自由な印象を受けますが、学校としては完全に自由にさせるわけにはいかないため、自由をコントロールする必要があります。そこで、学校側は学習ノートを用意して「今日やったことを書きなさい」と、自己管理の仕方を教えるだけでなく、自己管理できているかどうかを「管理」することになってしまった。本当の自己管理というよりは、「自己管理できている」ということを外に表明し続けるような「振りつけられた自己管理」という感じです。こういう「自己管理」とは、スケジュールを埋めていく作業であり、結果的に遊びと自由が奪われてしまった……と、私は分析しています。
自己管理が悪いとは言いませんが、自己管理至上主義はいかがなものかと思います。いま、サッカー日本代表の本田圭佑さんの「夢は叶う」という言葉が、すごく評価されてるじゃないですか。私はあの言葉、大キライなんですよ(笑)。これは本田選手を批判しているのではなく、「夢を見据えて、計画通りになることが素晴らしい」というメッセージが、大衆に受け入れられている現状がおかしい、と言いたいんです。 進路を目前に控えた学生たちが、やりたいことが見つからないと悩んだり、慌てて自分探しを始めたりしますが、そもそも20年程度の人生で分かりゃしないですよ。でも、彼らが必要以上に悩んでいるのは「目的を決めて、それに向かうのが善」みたいな風潮が蔓延しているから。これが問題なんです。

6) たしかに最近は「善か悪か」や「0か100か」といった極端な思考が増えている気がします

何かしたら、すぐにTwitterなどにアップされて善悪のみで判断されてしまう。“曖昧さ”や“グレーゾーン”を排除する動きを感じますよね。しかし、人類の発展において、曖昧さを引き受けることは非常に高度な能力なんです。「いい加減」という言葉がありますが、加減のよさとは曖昧さやグレーゾーンです。ただ単純に曖昧さを残せばいいというのではなく、曖昧さの加減・あんばいを調節する力が非常に大切ということです。ところが、曖昧さを排除するということは、必然的に高度な能力を発揮する場面を奪ってしまうことになります。高度な能力が発揮できなければ、人類は停滞……いや、退化する恐れもある。「ブレーキの遊び」という言葉がありますが、遊びという余白部分がないと、ノーブレーキか急ブレーキという危険な二極化に向かってしまいます。曖昧さやグレーゾーンも、この余白部分──遊び──と同様で、社会に欠かせない要素だと思うんです。

7) 現代は「遊び」が不足しているのでしょうか?

私は「現代ほど遊びが失われた時代はない」と思っています。高度経済成長期を終えた70年代から80年代の日本は、遊びが注目され、一般化したことで多くの文化が生まれました。ところが、順調に遊びが社会に根づくかと思いきや、遊びは世俗と悪しき手を組んでしまった感があります。「遊びを目に見える利益として価値づける風潮」は顕著な例ですし、遊びを手段と捉えることによって、結果的に現在の日本からは精神の余裕・曖昧さ・遊びが失われようとしているように見えるんです。
さきほどの「夢を叶える」の話も極端。たしかに、ある程度の見通しは必要ですが、未来を見据えた上で現在を考えたとき、いつだって現在は犠牲にしかなりません。あくまでも遊びは現在を輝かせる行為ですが、夢(未来)のために遊び(現在)を切り捨てるのはよくない。繰り返しますが、遊びは文化を生む要素です。だからこそ、遊びから得られた経験・創造性が未来へ繋がっていく……という考え方を大事にして欲しいんですよ。もちろん、この考えを浸透させるためには、何かしらのセーフティーネットを用意する必要があるとは思いますけどね。

8) そうなると今後の目標は、さらなる「遊び」の研究・活動でしょうか

そうですね。「遊び学」を確立し、あらゆる場面で世の中に「遊び」を仕掛けていきたいです。また“遊びとは目的のない教育”でもあるので、並行して表の顔である教育・教育支援にも力を入れていきたいと思います。現在、学校と地域社会の壁を低くする活動を行っていますが、ほかにも現行の学校制度には問題があります。学校は社会を学ぶ場でもありながら「教師自体が社会を知らなすぎる」と批判されてしまう点も改善したい。先生という職業に必要なことだけ学ぶのではなく、大切なことは履修科目以外にもたくさんあります。教師を目指す人に限らず、もっと多くの人が、単純に「おもしろい」という気持ちを大切にして欲しいと思います。

TEXT:松本晋平

PHOTO:神藤 剛

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